三俣俊二氏に連れられて、鶴島へ2回わたった。鶴島は岡山県の瀬戸内海に存在する周囲3キロの島である。宗教部の学生を連れて黙想会を行う準備のためだった。初回は2人で、2回目は学生10名ほど連れ、教員数名伴って行った。あれは昭和62年(1987年)3月2日、2回目は3月の11ー12日だった。鶴島へはJR赤穂線で日生まで行き、そこから船であった。
明治時代に、長崎浦上村のキリスト教徒3000名余が突如集められ、他地域に流配された。安政5年1858年の日米修好通商条約に続きロシア、オランダ、イギリス、フランスとの修好条約が成立し、日本の開国は進み教会の建設なども日本政府は認めるようになり、それに伴って禁教が緩められるような時期であった。長崎のキリスト教徒たちは禁教は解かれたと感じていたのであろう。しかし新政府には未だ強く反対の働きかけがあり、なんと新政府は3000名余と言う多数のキリシタンを改宗のために他の地に流配したのである。この状況を聞いた神父たちは驚き、日本政府に直ちに中止するように訴えたが、時既に遅しで流配は実行されたのである。
鶴島に流された彼らはそこで貧食、寒さ、暴力、強制労働などの劣悪な状況におかれたのである。海岸に小屋が立てられ、そこに押し込められて残酷な重労働を受け、わずか3年間のうち数名が亡くなっている。役人の気に入らない女子供は梅の木に吊るされた。改宗した人と非改宗の人たちとの差別と対立なども克明に記録されている。数年後その記録は神父たちから日本政府に激しい非難と共に報告された。下手をすると新政府存続すら危なくなると感じた立場の弱い日本政府は、強く各藩に中止の指示を出し、1873年(明治6年)キリシタン禁教令も解き、岡山藩、鶴島の人々も浦上へ帰国した。強制労働で耕した土地はまた元の荒地に戻り、再び無人島となった。今では名前も刻まれていない十個の無名墓石だけが残った。浦上村に戻ったキリシタン45名であった。その中に岩永市蔵の娘マキがいたのである。彼女は強い信仰心を守り抜いて長崎に帰ってきた。
翌明治7年には赤痢や天然痘が伊王島や蔭ノ尾島から長崎各地に大流行し、次々と人々を倒して行った。大浦天主堂のパリミッション会、ド・ロ神父は自らのもつ医学技術でこの病気に立ち向かい、この病に苦しむ日本人を救助していた。これを見た鶴島から帰ったばかりの岩永マキはド・ロ神父を助け、共にこの病気に厳然と立ち向かい、病にかかった島民を助ける働きと祈りを行ったのである。マキを見て、萩・流配の岩永ツル、津和野・流配の守山マツ、高知・流配の片岡ワイと鳥取・流配の深堀ワサらの乙女らがこれに加わったのである。彼女らの献身的働きと強い祈りは長崎の伝染病制圧へとつながっていくのである。劣悪な生活条件の中で蔓延した赤痢や天然痘の病をわずか8名の死者で食い止めたのは、彼女らの働きと祈りの賜物であった。
三俣俊二先生は南山大学文学部卒の本学教員であった。初めそうとは知らず顔の四角い大柄の先生で、小生の研究室の近くの理科研究室の倉庫のようなところに出入りしておられる変わった先生だった。倉庫では捨てられたテレビ画像ビデオ装置を数々集めておられ、修理しておられた。修理が終わったので差し上げると言われ自宅へもち帰りテストしたことがあった。あまり良い結果は得られなかったが、そんなことから雑談が行われ、当時、小生宗教部のメンバーだったことから、彼の鶴島の話が出たのであろう。
当時、彼は鶴島のキリシタン流配の話を調査、研究中であったのであろう。鶴島は小さな島で、船からあがると海岸が続き、細い道から島の奥に入ることができた。奥に入ると木立があり、静かな山奥となる。石仏がいくつかあり、島で亡くなった方の墓石だったのであろう。そしてさらに奥にはマリア像が立っていた。しかし放置されされっぱなしの寂しいものであった。それらについて三俣氏から説明を受けたのだろうが記憶にない。日生では牡蠣が多く水揚げされているところを見ながら初日はお土産として買い求めながら帰宅した思いがある。2回目に行ったときには小山神父もご一緒で、マリア像や石碑などの周りを学生とともに清掃し、ミサが行われた記憶がある。その日は日生の宿舎施設に泊まって鶴島へわたったはずである。三俣氏からはここに流された人たちの話、説明があっただろう。その後、小生と三俣氏とはご一緒する事はなかったが、所用で福岡へ行った際、長崎まで足を伸ばし散策した。駅前の本屋で三俣氏の本「姫路・岡山・鳥取に流された浦上キリシタン」が目に留まった。帰宅後三俣氏に電話をした記憶があった。改めて鶴島のことを読んで驚き、浦上村キリシタン流配事件の詳細を知ったのである。事細かな調査とその記述には、大柄な彼の体躯を思い出すたびに、細かな電子機器修理を趣味にしていたので納得ゆく。今なって三俣先生が学生たちを連れて行った鶴島での黙想会は、マリアとの対面のベルナデッタ像を感じさせる黙想会であった。病に苦しむ苦境者を救ったマキたち乙女のの祈り姿を学生の祈りの姿に重ね、マリアに祈ることを三俣氏が具現化したのが鶴島の黙想会だったのだろうか。
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- 鶴島と三俣先生の思い出
- 2026 年 06 月 13 日
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