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その後の小麦粉クロリネーションと乾熱処理の件、

神戸女子大学に移動し、しばらく酢酸ガス処理小麦粉による製パン性改良試験を続けた。この研究は当時大学院生だった林真千子氏が中心になって行われ、本人の学位論文にまで至ったものである。

神戸女子大学に移ってしばらくすると、学園(大学、短大)の助手に学位取得のチャンスが生まれた。本人の研究日あるいは,土、日の休日を使って研究に専念し、5年間内に働きながら博士の学位がとれる様にしようというものであった。このチャンスにと神戸女子短期大学の小澤,中村助手が小生の研究室での学位取得を目的に希望して来た。本人たちは全く自らの考えるテーマはなく、何をやらせようと考慮したが、やはりホットケーキ用小麦粉の乾熱処理による改良のメカニズム関係,さらにその後大学近辺の増田製粉所からのカステラ小麦粉のエージング改良メカニズムの解明のテーマがやりやすいのではないかと考えて、前者は、小澤氏、後者は中村氏中心に研究を進める事になった。

両者とも極めてまじめで,研究熱心な女性であり、好感が感じられた。数年の研究を神戸女子大で行ったが、何れも集中力もあり、本学従順の行吉哉女先生の人作りの賜物と思われた。

薄力小麦粉の種類を,宝笠ゴールド,フリアン、特宝笠ゴールド、アオコマ小麦粉と選び,これらの粉を使って先ず両者協力して各種乾熱処理レベル小麦粉を作り,夫々の小麦粉の性質を調べた。1つはB. Amylograph による乾熱処理による粘度立ち上がりの早期化と最高粘度値の上昇であった。これらは何れも予想通り、乾熱処理条件を上げるに伴って粘度立ち上がりの早期化と最高粘度上昇の傾向が認められた。

次に大変労力と時間のかかる小麦粉の酢酸による分画実験であった。2人で協力して数年かけて各処理小麦粉の分画実験が行われた。小澤氏は先ず小麦粉の分画方法の検討から進めた。これまでの分画方法はワーリングブレンダーの激しい撹拌により小麦粉/水懸濁液を作り、これを直ちに遠心分離機を使って処理するわけであるが,クロリネーション小麦粉を行う場合クロリネーションレベルを上げて行くと水溶性区分,グルテン区分を除去した後,残った区分が未処理小麦粉では完全に分離したものが、きれいにPS区分とT区分に分画しない事がわかっていた。

このPST区分の引力は当然ホットケーキベーキング中にも起こるはずである。これがホットケーキ組織の弾力性に大きく関与している事は十分に推察されていたが,これをなるべくクロリネーションレベルとPST区分間の引力との相関関係をはっきりさせる必要があると思われた。この酢酸分画法をよりバッター中に近いものにしたい。すなわちあまり強い力をかけてPST区分をきれいに分離してしまうのではなく、むしろ相互関係をはっきり見るのに都合の良い分画方法を検討した。

いままでワーリングブレンダーで激しく撹拌した各区分,特にPST区分を明確に分離させる様にしたがこれをもっとマイルドなやり方で撹拌しながらなるべく相互力を残して分画しようと考えた。

始めは大きなビーカー中で小麦粉/水混合物をスパーテルを使って手で混合撹拌したが、これを自動乳鉢を用いて電動式の撹拌で行った。大量の乳鉢に小麦粉 50g150mLの水を加え,乳棒で電動的に撹拌するのである。20分間で撹拌し,泡も立てずにほぼ十分な撹拌をする事が出来,これを3000rpmで撹拌して分画進めた。これはワーリングブレンダーを用いたものと比べて各比率は変化し,特にPST区分のクロリネーション処理による相互作用がはっきり現れた。

即ちクロリネーションレベルをあげると、未処理ではWSGPS、 T区分がほぼ1:1:4:4 の比率で求められたのがWS, Gは大きく変化はないが,PST区分の相互作用で分離しにくくなった。これは顕微鏡的観察からもはっきり認められた。クロリネーションにより生じるPS区分、T区分の疎水化がT区分と関連を持ち相互が分離し難くなったものと思われた。この現象はクロリネーションによる変化を示す明らかな現象であり,ホットケーキ等のテクスチュアと大きく関与している現象である。即ちホットケーキバッター中で小麦粉に水を加えて撹拌してバッターは単なる小麦粉構成成分のミックスチュアではなく,各成分,特にPST区分(全体の8割)区分が大きく変わり、発生するガスを抱き抱えその力が大きく変化し,組織増加したものと思われた。

この現象はクロリネーションによる現象の変化を示す重要な現象であり,ホットケーキではプロダクトのテクスチュアに大きく影響している現象である。即ちホットケーキバッター中で小麦粉に水を加えて撹拌した時、バッターは単なる小麦粉構成成分のミクスチュアではなく、各成分,特にPST区分(全体の80%)区分が大きくこれまでと変わり発生するガスを抱き抱える力が大きく変化し,さらに弾力性変化に関与するはずだ。この事は乾熱処理小麦粉でも生じているはずである。なぜなら乾熱処理小麦粉中のPSもその表面が疎水的になるからである。そこで彼女らはこれを確認するために多量の小麦粉を乾熱処理サンプルを調製して,これらをこの条件で酢酸分画実験をすすめた。クロリネーション同様に乾熱処理を強めてPSTの相互作用が示された。

カステラの件

乾熱処理小麦粉によるカステラ構造の変化についてを記述すると、それを見てか大学近辺にあるの増田製粉所(株)越川氏が小生の研究室を訪ねられた。その製粉所は昔からカステラ粉の製造を得意とする会社、あるいはそれ以外のケーキ用薄力粉を製造する事を得意として来た製造会社で、歴史は日本でも12を争う会社である。「これまでカステラ用小麦粉の製造をやってきて,お客さんから質問が多々あり、その際に困窮しているので助けていただきたい」とのことであった。カステラ用の薄力小麦粉(宝笠ゴールド等)を製造してきた。

しかし直ちに新鮮な小麦粉を製造メーカーにもちこんでもこれでは使えないと突き返される。なぜか原因不明だが,カステラの専門家はその新鮮なカステラ粉を触ってみてすぐに良し悪しを決める。しかしその理由は,原因がわからなく困っていると言う事であった。ずっとこの状態が続き原因が不明であった。工場では製造した小麦粉を暫く暗所、保存性の良いところに1年近く放置してそれを製品として出荷する。そうすると客は納得がゆき,専門家もそれを手に触ってはじめてOKが出るというわけである。その原因がわからぬとの事である。当時我々も薄力小麦粉でクロリネーションするホットケーキ改良のメカニズムを化学的に解明してほぼデンプン粒表面の疎水化が原因だろうと追求して来た。それにかわる乾熱処理についてもPS区分が疎水的になり,多分この辺が新しい改良効果の原因であり、ホットケーキが改良させるであろうと推察して来た。

カステラの話を越川氏から伺ううちにカステラ小麦粉も同一の原因で、小麦粉のエージング(放置)によりデンプン粒表面に何らかの疎水的な変化が生じてこの様な改良効果が出るものと想像された。

このカステラ用小麦粉のエージングによる改良メカニズムの研究は中村氏が担当する事になった。小澤氏が乾熱処理ホットケーキのメカニズム改良の研究に集中し,中村氏がカステラを担当する事になった。

先ず中村氏にはカステラの効果を当研究室でも自在に再現出来る様にするアッセイ方法の確立が必要であった。カステラ製造工程はホットケーキとは異なり複雑で、そのため中村氏を越川氏のところに出向いてカステラ製造方法を学んでもらった。カステラを焼くためのカステラオーブンは独特であると言う。このため当研究室のオーブン利用の仕方の研究、あるいは不在の道具類の購入のため,数週間増田製粉所に出向した。越川氏の指導よろしく,当研究室で再現性あるカステラをベーキングする事ができる様になった。カステラは,安土桃山時代に日本にポルトガルから移入された製菓技術である。そのベーキング方法には、種比重,生地比重、90秒ベーキング、アワキリ、 8分ベーキング、カバー掛け25分べーキング云々がある。カステラの膨らみは卵白の膨らみを薄力小麦粉で安定化したもので,独特の膨らみは日本人の古来からの好みのものである。

中村氏は非常に冷静にこのカステラのアッセイ方法を確立した。再現性もある。ベーキング直後の容積は 約1950  mLであり,容積は次第に収縮して3時間後には一定となり1500 mL70-80%)と成る。従って実験でカステラ製造を室温放置3時間後の容積をそのデーターとした。

小麦粉の種類は増田製粉所から宝笠ゴールド,フリアン、特宝笠ゴールド、アオコマ小麦粉の4種類のサンプルを戴き,これらを用いてエージング試験を行った。その後、乾熱処理試験を同様に行いさらに各小麦粉の分画実験をすすめた。エージング試験は鉄皿中に薄く敷いて黒色のビニル袋に入れて通風のよい人出入りしない場所に一定時間放置するやり方で1年間行った。エージングした小麦粉サンプルはその都度ビニル袋に入れて−20℃のフリーザー中に使用まで保存した。強い親油性を示した条件を中心に,温度10℃上がると反応速度が23倍に成るというアレニウスの法則に従った温度120℃2時間,110℃ 4 時間,100℃8時間、90℃16時間、80℃32時間、70℃-------云々としてサンンプルを調製した。エ-ジングは室温,0、2、4時間でこれらを約1年間放置でサンプルを調製した。これらを何れも2-3回テストベーキングして,カステラのエージング,乾熱処理による効果を先ず確認した。カステラはエージングによりその容積は確実に増加した。さらに乾熱処理でも未処理に比較して容積は増加する事がわかった。小麦粉以外は卵は常に新鮮なものを用いた。

こうして古来から言われて来た経験的なカステラのエージングによる組織の改良,膨らみの改良効果が確認されたのである。同時に乾熱処理によるカステラ改良効果が確認されたのである。ここにそのメカニズムを中村氏はいかなるものかを解明した。カステラバッターを調製してベーキングに入るが,その段階でバッターのメスシリンダー容積は小麦粉のエージング,乾熱処理で何れも増加した。即ち卵白の与える泡は小麦粉により安定化するが、その傾向はエージングおよび乾熱処理で増加しているのである。小麦粉中のデンプン粒が疎水化して疎水的な泡表面に吸着して、疎水的な泡表面に吸着した卵泡を安定化しているのである。これはホットケーキのバッターの泡安定化がクロリネーションあるいは乾熱処理で得られるのと同様であった。

勿論使用した小麦粉中のデンプン粒はエージングあるいは乾熱処理で疎水化,親油化している事は小麦粉分画実験,親油化試験から証明され、さらにPS区分、T区分間の相互作用は次第に各処理により大きく変化し分離しにくくなる。その相互作用の大きさとカステラ容積の大きさとは強い相互作用があり、カステラ疎水化改良には小麦粉中のPSの疎水化が大きな役割をしている事が証明されたのである。彼女の学会発表時、それを聞いた農水省の女性研究員が「目から鱗が外れた」と言ったのが印象的に思い出される。中村氏はこの仕事で学位を取得した。

小澤氏はクロリネーション代替の小麦粉乾熱,エージング処理によるパンケーキ改良のメカニズムで学位を得た。

酢酸ガス処理小麦粉による製パン性改良効果の研究は、林真千子氏によって行われた。ホットケーキ用薄力小麦粉の品質改良のために塩素ガスが効果的に用いられた。当時原因は不明であったが、確かにホットケーキの組織改良,弾力性改良などに効果があり、後にデンプン粒表面の疎水化がその原因として推察された。

パン用小麦粉の改良にはやはりハロゲンのブロメート(KBrO3)の粉体が盛んに用いられているがこのブロムはやはりハロゲンでその衛生効果が心配であった。そこでこれに変わる何らかの方法が必要と考えられたが,小生は酢酸ガスを用いた。

塩素ガス同様、気体が固体の小麦粉を処理するのには都合よいのではと考えられた。各種ガスが考えられたが、酢酸ガスを小麦粉に処理してその小麦粉で製パン試験を行ったところ、出来たパンが製パン機のフタを押し上げるほどの効果が示され、これは効果的であると本格的な試験に入った。

酢酸ならば衛生上の不安はなかろうと思われた。

小麦粉1Kgをカラムに詰めてコンプレサーで下部から空気を送りこむシステムを考えた。途中に酢酸の入った容器をつけ一晩空気をコンプレッッサーで流し続けた。酢酸ガスは全て気化して小麦粉中に混入した。

醋酸ガス処理した小麦粉はその後、空気中に広げてよく混合し、酢酸の局在しない様に均一にした。酢酸ガス処理量を変えて、サンプルを調製し製パン試験に取りかかった。何れの強力小麦粉もあるレベルの酢酸ガス処理でパン高の上昇が認められた。製パン試験は各種外麦は勿論のこと,内麦についても試験を行った。何れもはっきりしたパン高の上昇が認められた。製パン試験はあるレベルまではパン高は上昇したが、それ以上酢酸ガス量を増やすとパン高は低下した。松本先生の考えたシステムを用いて研究を進めた結果,酢酸ガス処理によりイーストを活性化しよくガスを出し、それ以上ではイーストは活性を失ってガスを出さなくなる。酢酸によりイーストは死滅する。小麦粉ドウに対しては酢酸ガスはドウに変化を与えて,ドウの粘度を増加した。小麦粉ドウのpHによる変化で興味ぶかいことがわかった。酢酸ガスを吹き込む事で小麦粉ドウのpHは当然低下する。それに伴って小麦粉ドウの粘度が大きく増加したのである。これは酢酸ガス処理でイーストに与える影響とともにパンドウへの酢酸ガス処理による影響である。小麦粉ドウのpHpHメーターで測定するが、粘度はpH4.0付近で急激に変化するのである。即ちpH4.0にすると粘度は大きく上昇し粘度が増加する。pHを元に戻すと粘度は元にもどる。pHの変化により可逆的に小麦粉ドウの粘度が変化するのである。しかもこの変化は非常に急激であった。この変化は酢酸ガス処理で小麦粉ドウの粘度変化が大きくなり,製パン性向上,即ちパン容積の増加に結びついてくる。その原因は小麦粉中のタンパク質へのpHの影響と思われた。

こうして酢酸ガス処理によるパン高の上昇,パン比容積の増加は2つの原因であるとわかった。比較的高タンパク質の外粉の場合はそれ以上のパン高、比容積増加は必要ないが,内麦粉の様に低タンパク質で製パン性にむいてない場合には、外麦に比べ低酢酸ガス量でより高いパン高,比容積を得るのには十分である。

酢酸ガス処理はパン中残存の酢酸が異臭となりトラブルであった。しかし内麦のような場合には低処理量でよいのでこの酢酸の異臭を低下させることが出来る。しかもこの異臭はパン中にバターを混入させる事で除去する事が出来た。

内麦の様にパンには使い難い小麦粉でも酢酸ガス処理をおこなうことで製パン改良剤として使えることが判った。林真千子氏はこの研究で学位を与えられた。酢酸ガス処理はカラム中に小麦粉を入れ、下部から酢酸ガスをふきもこむやり方なので多量の小麦粉処理には向いてない。何か新たな処理方法として、カラム全体を振動させながら空気を粉体中に流し込む方法なども考察されたが,その後この小麦粉酢酸ガス処理は進展していない。

小麦粉デンプン粒の研究がずっと気になっていた。小麦デンプン粒表面をクロリネーションで反応すると小麦デンプン粒表面タンパク質+が疎水化,親油化を起こしてこれがケーキなど薄力小麦粉を用いてベーカリー製品の性質に大きく影響を及ぼす事がわかったが,混合物中でのはなしでデンプン粒がどうなっているのか大きな疑問点であった。当時の研究と言えば専らデンプン性食品中の糊化デンプンのはなし,そしてこの構成のアミロース,アミロペクチン,さらにそれらのグルコースやその2-糖類のオリゴ糖の構造のはなし,そのデンプンガどのようにに酵素で分解してゆくか,その酵素は何かと言うデンプン粒として見た研究より,その内部の構成成分との研究が殆どであり,デンプン粒はどうなっているのか,小麦粉製品中のデンプン粒としての役割は研究されていなかった。デンプンは当然,ばらされて粒としての性質は全く無視された定番がデンプン化学の研究現状で会った。そこで当方の様なデンプン粒などベーキングにはバラバラになってアミロース,アミロペクチン,その分解物になり,それらの研究が全て解決すると言うことであった。デンプン粒の表面がどうなろうとあるいはベーカリー中になってデンプン粒がどうなろうかと言う観点はなかった。しかし当方の様に加工食品として見た場合,デンプン粒はかならずしも粒形を留める事などバラバラになり,アミロース、アミロペクチンの話ではなしと考えられ,しかしこの様なデンプン粒の話は論外視されて,日本の学会発表は異端視されたのである。しかし米国のAACC会議ではそうではなかった。小生の発表は大変に興味が持たれたのである。デンプン粒の表面のタンパク質など興味が持たれたのである。小生の考えでは、デンプン粒は1個のものとして、水量も少なく,加熱程度も低い状態で先ず,加熱されても簡単には構造はゆるまず、アミロース,アミロペクチンのようにバラバラにはならないのであり、グルテンタンパク質、不溶性多糖類などの間にあって,デンプン粒の塊として存在し,その製品の食感,テクスチュアに機能するものであり,当然そのデンプン粒表面の性質には相関関係は極めて重要であり、大きいものであり,これを無視してはこれらの構造やらテクスチュアは得られないと言う考え方である。そこでクロリネションで得たデンプン粒の疎水化は全く従来のデンプン粒の性質とは異なるものでこれは極めて重要な働くをするものであると言う考え方である。さらにデンプン粒はどのような構造になっているのであろうかと次に以下の様に調べて行った。

小麦デンプン粒の立体構造の3次元写真を撮りたいと考えた。デンプンは粒に水を加えて加熱すると多量の水を吸収して糊化を起こし,その立体構造は崩れて不明になる。そこで粒をそのまま崩さずに内部の立体構造を見る事ができない。そこがデンプン粒の構造研究の難しいところである。そこでデンプン粒を何らかの化学修飾して粒が水の存在下でも糊化せずその儘の形を保持して、内部を崩しながら観察したいというのが目的である。

デンプン粒をクマシイブリリアントブルーと言う染料でデンプン粒の着色する方法が報告されていた。この修飾により粒の性質が変化して、糊化せずに固まったまま粒の崩壊が起こればと思った。クマシイブリリアントブルー法を用いて学生が小麦デンプン大粒(PS)を染色した。その後乾燥して青色のパウダーとして貯蔵することが出来た。

金長さんは、小生の実験助手として、授業、学生実験、実習の援助をしてくれていた。彼女は小生の所にくる前に原田徳也先生の下で電子顕微鏡の訓練をしていた。本学のこの装置は古いものでコンピューターは一切使っておらず、専ら手作業のみで微調整し,電子顕微鏡写真を撮るという一昔前のものであった。この染色した小麦デンプン粒を2枚のスライドグラス中のにおいて上から指で加圧してデンプン粒を崩壊させた。このパウダー化したデンプン粒をサンプルとして金長氏は電子顕微鏡写真を撮ってくれた。

 観察には長時間かけて色々な角度からサンプルを撮影した。日中は大学業務があり、集中して写真が撮れない。そこで電子顕微鏡室に徹夜で泊まり込んで撮影したい言い出した。彼女は家庭婦人のこともあり,それもどうかと思ったが,彼女の熱意に任せてやる事にした。小生も自室で当日は徹夜する事にした。サンプルは種々あったが、なかなかうまく崩れて3次構造的に内部が観察出来るサンプルをさがすのに手間どった。適当な場所を見つけてあとは手動でピントを会わせて行くのである。このテクニックは金長氏の独壇場ですぐには真似出来なかった。朝までかけて探し続けて多くの写真をとり、目の前に示された。粒は糊化する事なく元の粒の形の儘崩壊されており、表面の様子、内部の様子が微細に観察する事が出来た。何か予想も出来ない様に、粒表面構造の内部にはさらに別サイズの小さい粒子が多く入っている様な感じがした。数々の写真を直ちにCereal Chemistryに投稿した。審査員も驚き納得したのであろう、直ちにACCEPTの連絡がきてCereal Chemistry誌上を飾る事が出来た。

その後金長氏は体調を崩して大学を欠勤した。早朝に父親から本人入院を電話で聞き、驚き、何か責任を感じた。丁度そのごろCereal Chemistry の雑誌が届き、そこには彼女の撮影した数々の小麦デンプン粒の写真が掲載されていた。小生はこれを持って入院中の彼女を訪ね、「貴殿のとった写真だ」と見せたらベッド中にそれを見て泣いていたのが印象的だった。自分の仕事に感動したのだろう。

小麦デンプン大粒のゴースト化のことを記述しておかねばならない。デンプンのアミロース、アミロペクチンを染色するのに、ヨーソヨード溶液が用いられるが、そのストック溶液として 25%KI / 10%I2を調製した。実際のデンプンの染色時にはこの原液を0.2%KI / 0.04%I2に水希釈して使用する。

モチコムギが農水省の山守 誠氏によって作られ、社会の大きなニュースになったが、ボルチモアでのAACC大会では彼の講演を聞いたが素晴らしかった。講演後スタンデングアレーが起こり,聴総立ちになって拍手していた。日本の学会ではお目にかかれない光景であった。同席には日清製粉の長尾精一氏も列席しておられた。日清製粉はこのモチコムギの仕事には少々関与していた様に感じられた。講演後、モチコムギを少々欲しいが可能だろうかと当たって見たところ,快諾してくれた。少量のモチコムギを入手する事が出来た。

小麦デンプン大粒(PS区分)を集める事が出来た。

早速このもち小麦デンプン粒を顕微鏡下でヨード染色を試みた。その際、たまたまヨーソヨード原液(25% KI / 10% I2溶液)をそのまま用いた。顕微鏡下で、カバーグラスとスライドグラスの間にこの25%KI/ 10% I2溶液が次第にしみてゆくとデンプン粒は丁度花が開くようにその構造を変化していった。これには驚いた。中心部には丸く黒い染色した部分があり、そしてその周縁部をうすいピンク色した花びらのような構造が現れた。これをゴーストと称した。ウルチデンプン粒はヨーソヨード原液でもその様な事はなく、ただ粒子は強く紺色に染色するのみである。他のデンプン粒ではどうか。米など次々に調べてゆく。すべてのものが同様であったが,小麦ワキシデンプン粒の場合は多少中心部にアミロース的染色部が残存したのである。

このころ、林美穂氏が小生の研究室に来る事になった。

林氏の母親は神戸女子大の卒業生で,大阪淀川キリスト教病院の栄養室に勤務中であった。神戸女子大の学生の病院実習で毎年彼女にお世話になっていて,担当者であった小生とはよく連絡していた。母親からある日小生のもとに電話があった。「娘を先生のところで学位をとらせてもらいたい」とのことであった。彼女は小生の階下の研究室、梶原教授のところでマスターを終了しドクターにゆく予定であった。梶原先生から断られたようで、当方に回って来たのだろう。しかし梶原先生の所のマスターの仕事内容と小生の所とは全く分野が異なっていた。そのためマスターの仕事はそのまま当方では出来ない。小生の研究室にそのままの形で数年いてその後博士をとる様なことなら可能であろうかなどと思った。短大の細見先生が少々この研究に噛んでいたが、このもち小麦デンプン粒の研究テーナを誰か専門にやらせたいと思っていた矢先だった。早速小生の研究室にきて彼女にこの仕事をやらせた。

林さんはそんな事で小生の研究室にやって来た。あまりしゃべる事もなく、黙々と仕事をやるタイプであった。データーは確実で、きれいに実験を進めてゆくタイプであった。これまでのモチ小麦デンプン粒を高濃度のKI/I2溶液処理をし,ゴースト化の確認実験をした後、中心部に残る黒色部のアミロース部分をどうするか実験した。ゴースト化したデンプン粒を超音波処理して周縁の花びら状のモノを外し、遠心分離で黒色化する中心部と分離した。全体のうち黒色部分5.4%、花びら状の周縁部分は74.6%であった。中心部分はアミロース部分であろうか。しかしカバーグラスとスライドグラスの間におしつけて平面的にみた場合、ゴーストの中心部に見える黒色部分は元のデンプン粒では一体どこに位置しているものかは不明である。即ち粒の中心部にこの黒色部分が存在したのかどうかは不明であった。

林さんはこれまでウルチ小麦デンプン粒表面が乾熱処理で疎水化、すなわち親油的になる性質を利用して、このモチ小麦デンプン粒の黒色部分の存在位置を推察しようとした。先ず120℃hほどの乾熱処理をモチ小麦デンプン粒に施し,親油性のあることを確認した。

この親油性部分はデンプン粒表面にある事がわかっている。しかもデンプン粒表面のタンパク質にその性質があることもトリプシン処理で親油性の消える事からわかった。次にこの乾熱処理したモチ小麦デンプン粒をゴースト化し、超音波処理、遠心分離した。黒色部分と,花びら部分に分けて各々の親油性を調べると親油性は花びら部分にあった。即ち花びら部分に粒表面のタンパク質が存在し、黒色部分は親油性を示さなかった。このことは黒色部分はモチ小麦デンプン粒の中心部分に存在していることを示す。黒色部分はアミロースからなると思われる。

さらに林氏はこの超音波処理で外れた中心部分と周縁部分を夫々Sepharose CL-2Bゲルクロマトグラフィーにかけて調べた。その結果、中心区分はOD572nmのアミロースの吸収が認められ、一方周縁部部分にはOD572nmの吸収は全く認めれなかった。中心部の黒色部はアミロースの存在とアミロペクチンの混在が認められた。

モチ小麦デンプン粒は粒中心部に少量5.4%のアミロース区分が存在し,周縁部にはアミロペクチン、74.6%存在する構造で、アミロペクチン100%のモチデンプンではない。モチ小麦デンプン粒表面にはやはり多少のタンパク質が存在していてこれが乾熱処理で親油性を示した。この事はワキシ小麦デンプン粒と同様である。ワキシ小麦デンプン粒はヨード染色に黒色に近い色調を示すが、これは粒表面にもアミロースのある事を示し,粒全体アミロース,アミロペクチンが混在している事がこれまでの常識である。しかも粒は高濃度KI/I2溶液でも簡単にゴースト化しない強固な粒構造を与えている。モチ小麦デンプン粒以外,各種デンプンのデンプン粒を林さんは何れも高濃度のKI/I2溶液でゴースト化を調べ5%以下のアミロースの場合にゴースト化を起した。さらにモチ小麦デンプン粒のうち小粒もやはりゴースト化後、粒中心部の存在は示されなかった。

ウルチ小麦デンプン粒にはこれらにはアミロースが20%程存在しているが,このアミロースの存在が外れてモチ化すると粒は高濃度KI/I2溶液でゴースト化,崩壊を起すのであった。アミロースは粒表面にあって針金の様に粒表面を巻き占めて、外部からの攻撃を守り,デンプンの保存性を高めるのに役立っているのであろうと結論した。モチ小麦デンプン粒の示す粒内部に取り残されたアミロース区分は何を意味するのかは目下のところ不明である。林氏は学位を得た。

金長さんの観察したSEMの写真の中にはウルチ小麦デンプン粒が糊化しない様にして崩れて行く粒が観察されている。そこには何層にも分かれた層が、キャベツ状に存在しており、中心部には何か独自の小サイズのデンプン粒が存在しているようであり、その生合成の複雑さが推察される。始めに小粒形成が起こり、それを中心にその外側のデンプンの層が何層にもかぶさり、さいごにかぶさったアミロペクチンによる層の外側にアミロースの針金状の膜がかぶさりがんじがらめの粒が完成して,強固なデンプン粒の貯蔵形態が得られた様な感じがするが未だ未発見の部分が多い。

  
  
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