「すし」の歴史は長く、奈良時代の熟鮓に始まる。「熟鮓(なれずし)」は魚を塩と米飯で長期間漬けて醗酵させた保存食であったが、室町時代に酸味を帯びた飯を一緒食べる生熟れ鮓に代わった。その鮓が大きな変化を見せたのは江戸時代である。元禄の頃、上方で魚や飯に酢を加え重石をして1夜で漬ける「押し鮓」に替り、さらに醗酵させる代わりに飯に酢を混ぜてつくる「早鮓」ができた。今日の「握り鮨」は酢飯に生魚の切り身と山葵を合わせて握るもので、文政年間(1818-30)に江戸与兵衛考案。目の前で握ってくれて、素早く食べられる握り鮨気短な江戸っ子に大受けした。マクドナルドのハンバーガーにも勝る江戸のファーストフードである。    

よく使われた鮨種は こはだ、白魚、車えび、あなご、はまぐり、卵焼きなどで、現在の2倍ほどある大きな鮨が一貫、4文か8文で売られた。冷蔵庫のない時代であるから鮨種は生ではなく、酢でしめるか、茹でる、あるいは煮てあった。握鮨にはそれまでの米酢ではなく酒粕を原料にする安い粕酢が使われたから、薄赤くいろのついた鮨であった。現在、鮨種としてもっとも人気がある鮪は好まれず、醤油に浸け込んだヅケにして使われた。味付けをした油揚げに飯を詰めた稲荷寿司が考案されたのは天保年間であり、赤い鳥居を描いた行燈を掲げて売っていたのでこう呼ばれた。

土用の丑の日に鰻を食べる習慣は江戸時代に始まったものであり、隅田川などで取れた鰻は「江戸前」といって人気があった。鰻は古代より滋養食として食べられていたが、丸のままぶつ切りにして串に刺して焼いたものを形が蒲の穂に似ているから蒲焼と呼んでいたらしい。蒲焼が人気になったのは身を割いて平らに串を打って焼き、垂れに醤油と味醂を使うようになってからである。蒲焼は屋台では一串16文で売られていたが、料理茶屋で食べれば一皿200文だった。

天ぷらを売る屋台は天明年間(1781-9)に現れた。天ぷら鍋に引火して火事になることを恐れて屋内で天ぷらを揚げることは固く禁じられていたのである。南蛮人が伝えたテンポラは魚の素揚げであったらしいが、江戸時代に小麦粉の衣を付けて揚げる現在の天ぷらに変わった。揚げ油には、当時大量に生産できるようになった菜種油やゴマ油が使われた。屋台で食べやすいように芝海老、貝柱、穴子や牛蒡、蓮根、長芋などを串に刺して揚げ、1串4文ぐらいで売っていた。

天ぷらは和食には数少ない油料理であり、天だねの水分が高温の油の中で蒸発して抜けるから、魚や野菜のうま味が濃縮されておいしくなる。次いでながらカキフライや海老フライは日本で考案された西欧料理つまり洋食であり、西欧にはたっぷりの油で揚げるディープフライはないのである。

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