江戸の町の食べ物屋で数が多かったのはそば屋とうどん屋である。そばはそれまでそば粉を湯で練った蕎麦掻にして食べていたが、寛文年間に小麦粉をつなぎにしたそば生地を切りそろえた切りそばを醤油に鰹節、みりんを合わせた「つゆ」で食べるようになってから急速に人気が出た。寒い季節には丼に温めたそばを入れ熱い出汁をかけるぶっかけ、(かけそば)が手っ取り早く、人気があった。

 立ち食いの屋台だけでなく、店を構えたそば屋も多く、酒を飲ませる店もあった。そばは一杯16文、現在の価格にすると320円であったから、手軽に楽しむことができた。細く長いそばのように寿命が延びるように願いを込めて年越しそばを食べる習慣が生まれたのもこの頃である。幕末にはそば屋が江戸府内に3763軒に増えていたという

 江戸開府のころは上方文化の影響でうどんが食べられれていたが、次第に関東、信州から出てくる人が多くなりそばに変わった。 うどんの由来は唐から伝わった混沌(こんとん)であると言われてきたが、それは今日のうどんとは全く別物である。室町時代に明から伝ってきた切麺が切麦なり江戸時代に うどんに変わったらしい。そうめんの先祖はやはり唐より伝わってきた唐菓子の一つ、小麦粉を練って伸ばし、縄のようによじった「索餅(さくへい」だというが、平安時代から7月7日に長寿の縁起物として食べていた索麺は小麦粉を練って細く引き伸ばした麦縄であり、それが江戸時代にそうめんに変わったらしい。夏には涼しい冷やしそうめんが喜ばれたが、当時のそうめんは今より長く、食べるのに苦労したらしい。

 うどん、そば、そうめんなど日本人が麺類を食べ始めたのは室町時代に水田の裏作に麦を栽培するようになってからであり、米が足りずに食べられなかった農民の代替食として広まり、小麦粉を挽く粉ひき臼と水車が農村の必需品になっていた。

 最近、麺類を食べる頻度を聞いてみると「週に2,3回」と回答する人が4割弱で、「週に1回以上は食べている」人の合計は8割にもなる。人気のあるのはうどんとそばであるが、次いでラーメンとスパゲティが、ことに若い世代に支持されている。

 

 

 

 

 

 

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