日本人が自宅以外で食事をする、つまり外食ができるようになったのは江戸時代からである。それまでは街道筋の旅籠のほかには食事ができるところはなく、食べ物はすべて自分の家で準備しなければならなかった。。

 幕府による江戸の町づくりが済むと、早速に神社や仏閣の門前に参詣客を相手に甘酒、餅、田楽などを売る茶店、茶飯と豆腐汁、煮しめを食べさせる奈良茶飯屋が現れた。続いて、江戸の中期になると町中にそば、うどん、てんぷら、鮓、うなぎ などを食べさせる担ぎ屋台、据え置きの屋台が多数現れた。当時人口が百万人を超える巨大な消費都市であった江戸の住民の多くは一日の収入が400文、8000円ほどの小商人、職人、振り売りなどであった。 そこで、こうした人たちをを相手にする天秤棒を担いで食べ物を売り歩く振り売り人や屋台店が現れ、常設の店を構える煮売り店、どん屋、そば屋、鮓屋、うなぎ屋、料理屋などができた。

 文化8年(1811)には江戸に7千6百軒の食べ物屋があり、その内、煮魚や野菜の煮しめなどを売る店が2千5百軒、うどん屋、そば屋が718軒、かば焼き屋が237軒、鮓屋が217軒であると記録されている。住民150人に対して食べ物店が1軒あった計算になる。現在でも外食店は全国に40万軒、住民120世帯1店舗であるから、江戸には外食店がいかに繁盛していたかを想像させる。

 これほどに食べ物屋が繁盛したのは江戸には単身男性が多かったからだと言われている。商家の小僧や丁稚、側人見習い、日雇い人足、下男、中間などの仕事を求めて地方から江戸に出て来る若者が多く武士であっても江戸詰めの藩士は妻子を国元に残していた。つまり、江戸の人口の3分の2は男性であり、男2人に1人は食事を作ってくれる者がいなかったから、炊きあがった麦飯や煮豆、煮しめの振り歩き、一膳飯屋や屋台のそばは便利な存在であった。

 飯屋ではちくわ、椎茸、青菜の煮しめ、つみれ汁、飯と漬物を百文ぐらいで食べることができた。振り売りで売られていた食べ物は、塩、醤油、味噌、豆腐、納豆、漬物、塩辛、干海苔、などの食料品、飴、ところてん、白玉だんごなどの菓子であり、飯、煮しめ、刺身などすぐに食べられるおかずもあった。現在、外食店や持ち帰りの弁当や総菜などを利用する人が多いのは、結婚をしない若者、配偶者を失った高齢者などの単身世帯が全世帯の3割を占めるようになり、食事作りを面倒だと考えるからだと言われている。男世帯が多かった江戸の外食事情と相通じるものがある。

 

 

 

 

 

 

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