日本人は酒好きである。邪馬台国では男も女も集まって酒を飲んでいたらしい。神様にお酒とご飯を供えて豊作や戦勝を祈願し、そのお下がりを部落の皆が一緒に飲み、食べる直会をするのである。これ以来、酒は宮廷の祭祀に欠かせぬものになり、酒盛りは国を治める大切な政治行事になった。宮廷にはそのための酒を造る役所があり、民衆はみだりに酒を飲むことを禁じられていた。

 古代の貴族社会や中世の武家社会では、一族の団結や主従の誓いを固めるために宴会の始めに式三献という酒礼が行われた。主と部下が同じ杯で酒を飲み交わす献を三度繰り返すのである。今日、結婚式で行う夫婦固めの三三九度の杯事、宴席での乾杯、お酌や盃のやり取り(献酬)などは式三献の名残りである。そして宴会が始まると、膳の料理を次々に取り替えては酒を飲む献を続ける。献ごとにどのような料理を出すかを考えるのが「献立」の語源である。

 本膳料理や会席料理などは宴会で酒を飲むために考え出された料理であり、酒と料理の調和が大切にされている。酒をうまく飲むためのおつまみを酒肴というように、日本酒を飲むために料理があり、料理をおいしくするためにワインが飲まれると言ってもよいかもしれない。

 米から酒を造る技術は稲作の技術と一緒に中国から伝来したと考えてよいが、すぐに日本独自の方法に変えられた。蒸米に麹菌を生やしたバラ麹で米の澱粉をゆっくりと糖化しながら、酒母(酵母)にアルコール発酵させる並行複発酵という高度な酒造り技術は室町時代から江戸時代までにほぼ完成した。外人は吟醸酒の素晴らしい果実香が米から作り出されると聞いて驚くそうである。

 冠婚葬祭など特別の日にしか酒を飲むことができなかった民衆が日常の楽。しみのために酒を飲むようになるのは江戸時代からである。江戸の住人が飲んだ酒の量は一人当たり4斗、72リットルといから驚きである。もちろん全国的に見ればその1割程度であった。明治になるとビール、ウイスキー、ワインなど洋酒が伝来したが容易には普及しなかったから、明治末年になっても日本酒の独壇場であった。明治末年には全国の造り酒屋は1万三千軒、生産量は463万石、83万キロリットルで人口一人当たり18リットルであった。その後、ビールが少し増えたが、戦前までは日本の酒の70%は日本酒であった。

 しかし、第2次大戦後は事情が一変した。食事が急速に洋風化したのでビールの消費が急速に増え、反対に日本酒は減少した。酒肴を選ぶことなく、枝豆や柿の種で手軽に飲めるビールに人気が集まったのである。最近では、ビールが酒全体の70%になり、日本酒はわずかに7%になっている。そのほかには焼酎やワイン、缶入りのカクテル、酎ハイなどがTPOに応じて飲まれている。。さらに高齢化社会になり、多量の飲酒は健康に悪影響を及ぼすのではないかと心配する人々が増えて節酒するようになったので、直近の20年に酒の総需要は2割も減少した。特に、若者の酒離れが著しい。宴会や飲み会などで上司や仲間と酒を飲んでコミュニケーションすることが少なくなったのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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