江戸の住人は酒好きであった。関西の伊丹、池田、灘で寒い冬に醸造する寒造り法が開発され、品質の良い酒が酒専用の酒廻船で江戸に運ばれた。これら上方からの下り酒は文政4年(1821)には年間、122万樽にもなった。住民1人あたりにすると、4斗入りの酒樽が1樽、72リットルであり、アルコールに換算すると10リットルを超えるから現代人以上の消費量である。

 酒の小売値は1升が250文、約5000円であり、居酒屋で飲めば燗酒、1合が20文から30文、約600円、肴はこんにゃくの煮物、鯖の味噌煮などが一皿4文であった。この頃、江戸には200軒を超す居酒屋があったらしい。それまでは冠婚葬祭など特別の場合でなければ酒を飲むことはできなかったが、この時代になると民衆の生活に余裕が生まれ、日常に飲酒を楽しめるようになったのである。

 すると、各地で開かれたのが「大酒大食いの会」である。文化12年、千住宿の宿屋、中屋六右衛門が開いた酒合戦には酒豪が百人集まって5合入り、1升入り、、3升入りなど6種類の大杯でどれだけ飲めるか競争した。肴はからすみ、花塩、さざれ梅、焼き鳥などである。各人が1杯飲む干すごとに芸妓が酒を注ぎ、記録するのである。この時は米屋の松勘という男が6種類の杯全部、合計9升2合を飲み干して優勝したという。さらに文化14年、両国の万屋八郎兵衛方で催された大会では、68歳の忠蔵が3升入りの杯で三杯飲み干し、30歳の利兵衛は6杯半飲んだがその場に倒れたと記録されている。日本酒、35リットルという信じられないような飲みっぷりである。

 しかし、江戸時代の記録は往々にして誇張があるからそのままには信じられない。また当時は酒屋が樽の酒を水で薄めることが横行し、、金魚酒(金魚が泳げるほどに薄い)や村雨酒(薄いからすぐ醒める)などというひどい酒もあったという。明治になってから酒を1升瓶に詰め,王冠をシールするようになってからこの悪徳商法は根絶したという。

 

 

 

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