一汁二菜あるいは三菜の日常的な和食は江戸の町で生まれたものである。江戸は徳川幕府が作り上げた巨大な消費都市であり、18世紀には人口が100万人を超える世界一の巨大都市であった。300年もの平和な時代が続いたので、農業、漁業、手工業の生産が増え、全国から物産の集まる江戸、大阪、京都などには商業が発達した。民衆はそれまでになく豊かになり、食生活を楽しむ余裕が初めて生まれてきた。

 徳川将軍が食べていた三の膳付きの本膳料理や富裕な商人などが楽しんだ贅沢な会席料理はすでに紹介したが、長屋に暮らす職人、小商人はどのような食事をしていたのだろうか。彼らは四畳半一間、土間に竈と流し,水甕があるだけの棟割り長屋に暮らしていた。家賃は500文、約1万円である。妻と子供一人と一緒に暮らす大工は1日に540文の日当を稼いでくるが、雨が降れば働けないから、平均すれば1日450文で暮らしている。米、1升を90文で買い、野菜や魚、味噌、醤油などを100文ぐらいで買ってt食べることになる 1日の収入が9000円、米は1升、1.5キログラムが1800円であるから、食費の割合、エンゲル係数は44%にもなる。江戸時代になってようやく民衆は朝昼晩の三度、米の飯を食べられるようになったのであるが、まだまだ食べることには苦労していた。

 大工一家が1日100文で買える食材を考えてみよが、う。当時の物価は、大根10本70文、菜もの1把6文、たくあん1本16文、豆腐1丁12文、油揚げ1枚2文、納豆1包み4文、卵1個10文、醤油1升60文、いわし10匹、120文、鯖1匹300文、鯛1匹1500文 ぐらいである。1文を20円として現在の物価に比べてみると、米、魚はずいぶん高く、野菜は安い。したがって、朝食は炊きたての飯に味噌汁と漬物、昼と夜は冷や飯、おかずは野菜の煮物、時には豆腐、油揚げか焼き魚であったろう。

 このように米飯を中心にして、おかずは野菜、大豆、魚の一汁二菜という和食は明治になっても変わることはなかった。収入の少ない家庭では、朝は味噌汁と漬物、昼はめざし、煮豆、福神漬け、夜はがんもどきの煮つけという粗末なおかずでご飯を食べていた。干し鯵や塩鮭などを食べるのは月に何回もなかったのである。必要なエネルギーの9割を米飯から摂るという栄養バランスの悪い和食である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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