中世の地方分権的政治体制が長い戦乱の末に崩壊して、徳川幕府が全国を統一して中央集権的幕藩体制が確立すると、ようやく戦乱のない平和な時代が訪れてきた。大規模の新田開発が行われ、沿岸漁法も進歩して農業、漁業ともに生産力が向上した。陸海の交通網が全国的に整備されたので、各地の産物が江戸や大阪、京都などの都市に集まり、商工業が著しく発達して富裕な町人衆が生まれ、農村にも富裕な名主、庄屋が現れてきた。民衆がそのすべてではないにしろ、古代、中世に比べれば比較にならぬほど豊かに暮らせるようになり、、満足に食べることもできない生活から脱却して、時には料理を楽しむ余裕が生まれてきた。

 そこで、室町時代に武家社会の饗応料理として登場した豪華で見栄えのする本膳料理は姿を変えて、二汁三菜か三汁七菜を二の膳付きの本膳に並べる食べて楽しめる本膳料理が武士、町人、農民の冠婚葬祭に使われるようになった。徳川将軍も常の日には朝と昼が一汁四菜、夕食は一汁五菜程度の本膳料理を食べていた ある日の夕食は鱚と青山椒の吸い物、笹巻鮓、鯛の刺身、みる貝、杓子菜、松茸、はんぺんの煮物、鯵と生姜の煮物、鉢盛(車海老鬼がら焼き、かまぼこ、煮鮑、照り煮くわい)、新生姜梅酢漬である。松代藩主、真田幸弘のある日の食事を紹介すると朝食はご飯、糸瓜の汁、茄子とあらめの煮物、餡かけ豆腐、漬物、夕食はご飯、豆腐と鰹の汁、茄子とみょうがの煮物、小鯛の焼き物、と漬物である。

  井原西鶴の「万の文反古」には富裕な商人が接待の献立を吟味する場面が出てくる。本膳には飯と鮑とくるみの和え物、サザエ、鱚、鯛の鱠、、椎茸、大根、ごぼう、里芋の汁、香の物、二の膳には鮭の焼き物、白魚の卵とじ、鴨、山菜、しめじなどの汁、三の膳には鯉の刺身、煎り酒、こだたみ汁、別に真竹の煮冷まし、鯛と青鷺の杉焼き、海老と青豆の和え物である。

 農民でも庄屋や名主の家の婚礼のご馳走は二の膳付きの本膳料理であある。本膳には一汁六菜、二の膳には一汁三菜程度であるが、鯛や海老、卵、かまぼこなどが使われた。伊勢参りの旅人を泊める御師宿では二の膳付きの本膳料理がでた。例えば、本膳は飯、汁、鱠(刺身)、あわび,麩、、ひじきの煮物と漬物、二の膳は汁、鱠、鯛の焼き物、鰡とみょうがの吸い物、はんぺん、椎茸、うどの煮物である。朝夕に食付で200文から300文、現在でいえば数千円で泊まれる旅籠の食事は朝夕ともに一汁二菜か三菜である。例えば、夕食は塩鯵の焼き物、、かんぴょう、かまぼこ、ごぼうの煮物、大根。ほうれんそう、柿の鱠、と飯と汁、朝食は甘鯛の焼き物、水菜、生湯葉、椎茸の煮物、梅干し、と飯、汁である。

 

 

 

 

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