天正10年(1582)、5月15日と16日の両日、織田信長は武田勝頼の討伐に協力してくれた徳川家康を安土城に招いて接待した。両日ともに夕食は五の膳まで揃えた本膳料理で酒宴が催された。初日の献立を再現してみると、本膳には鯛の焼き物、鯉の鱠、鮒鮓など、二の膳はうるか、ほやの冷汁、鮑など、三の膳には雉の胸肉、わたり蟹、山芋と鶴の汁、四の膳には巻するめ。椎茸、鮒汁,五の膳はまな鰹の刺身、ごぼう、鴨汁、削り昆布などである。菓子にはようひもちと豆飴が使われた。次の日には鯛、鱧、鯉、塩引き魚、蛸、海老、かまぼこ、なまこ、あわび、からすみ、さざえ、ばい貝、かずのこ、鯨、白鳥、青鷺、鴨、野菜は筍、瓜、椎茸、菓子は羊羹などが使われた。ついでながら、この時、饗応役を務めた明智 光秀がわずか半月後の6月2日、京都本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃したことはよく知られている。

 天正16年(1588)、天下を取った豊臣秀吉は聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰いだ。「行幸御献立記」によると4月15日の酒宴には初献の肴は小串と鱧、二献はにし、鳥、鯉、三献はきざみもの、のり、すいせん、四献はからすみ、あわび、刺身、白鳥、五献はすりもの、きざみもの、かたのわ、六献はくまびき、塩引き、鮓、酒びたし、するめ、七献はのり、酢大根、まんじゅう、八献は巻するめ、」さんしょう鯉、鶴の和え物、九献は川物、鮒である。翌日の酒宴は初献を塩引き、香の物、鱠,鮓、いもこみ、御飯、二献はからすみ、はす、鰡刺身、くらげ、貝、鶴汁、三献は干鱈、さんしょう鯉、かんそう、鳥、あわび、四献は酒びたし、にし貝、かまぼこ、鱸、五献は鴨羽盛、いけはく、いか、白鳥汁、六献はさざえ、麩、鳥、鯉、七献は鱠、串あわび、鮒である。菓子は麩、ところ、昆布巻き、クルミ、松葉昆布、きんかん、椎茸である。 使われた食材の中にはどのようなものかわからないものがあり、料理法の記載もないが、山海の珍味を集めた豪華な本膳料理で饗応が行われたのである。

 織田信長も豊臣秀吉も新たに手に入れた権力、財力を誇示するためにできる限りの豪華な饗応料理を用意したのであろう。しかし、やがて徳川幕府の幕藩体制が確立し、将軍、大名、家臣の身分が固定してしまうと、このように料理の品数が多いこと、料理が見栄えすることを競う本膳料理の役割は不要になる。七の膳まで並べるという常軌を逸した「見せる本膳料理」は姿を消し、二汁五菜か三汁七菜程度に簡略された二の膳付きの「食べて楽しむ本膳料理」が江戸期の武士、町人、農民の冠婚葬祭にて使われるようになる。それと並行して、江戸や京都の料亭で富裕な武士、町人たちが会食する料理として「会席料理」が登場してくるのである。

 

 

 

 

 

 

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