我が国に西欧人が来航したのは、天文12年(1543)、ポルトガル船が大隅半島に近い種子島に漂着して鉄砲を伝えた時が最初である。続いて、多数のイスパニアやポルトガルの商船が来航するようになり、上陸した宣教師たちは耶蘇教(キリスト教の布教に努めた。彼らが伝えた西欧の文化は南蛮文化、料理は南蛮料理と言われている。

 永禄12年(1569)、織田信長は京都二条城でポルトガルの宣教師フロイスを謁見したときに、ガラス瓶に詰めたコンペイトウを献上されて喜んでいる。元和2年、京都の商人、茶屋四郎次郎が徳川家康に流行の南蛮料理ですと紹介した天麩羅は鯛を榧の油で素揚げしたものであったが、後に江戸では小麦粉の衣をつけて揚げるようになった。

 戦国大名たちは禁じられていた牛肉料理を喜んで食べたらしい。キリシタン大名、高山右近は小田原征伐の陣中で牛肉を細川忠興と蒲生氏郷に食べさせている。細川忠興は南蛮料理が気に入り、自邸で鶏肉を使ったパエリヤなどを作らせていたと伝えられる。南蛮料理に興味を示したのは大名たちだけではなかった。永禄10年(1557)、キリシタン大名、大友宗麟の領地である大分では400人のキリシタン信者が牛肉とオリーブ油、サフランを入れて炊いたパエリヤで復活祭を祝っている。

 少し後になるが、長崎出島のオランダ商館ではオランダ正月(新暦の正月)に、通訳や書記とその家族、町役人、出入りの商人などを招待して、野牛の腿丸焼き、魚のフライ、ハム、鶏のカツレツ、鴨の煮物、エビのスープ、カステーラ、タルトなどオランダ料理をご馳走する習慣があった。寛永16年(1639)、徳川三代将軍、家光が鎖国を断行した後も、外国に向かって開かれた唯一の窓になった長崎の住人達はオランダや中国の食文化を積極的に取り入れることを止めなったのである。

 古代から中世にかけて中国、朝鮮の食文化を積極的に受け入れ、ようやく本膳料理、懐石料理という独自の和食文化を形成したところに、突然に見知らぬ西欧の食文化である南蛮料理の洗礼を受けたのだといえる。

 

 

 

 

 

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