日本人が茶を飲用し始めたのは、鎌倉時代の初期、臨済宗の開祖、栄西禅師が宋から茶樹の種を持ち帰って栽培し、喫茶養生記を著して抹茶の製法や喫茶の効用を紹介してからである。始めは寺院で仏前に茶を献じる儀式、茶礼から始まった喫茶の習慣は、南北朝時代になると武家社会、町人社会に広がり、寄り集まって茶を飲み、茶の産地などを飲み当てる闘茶で遊び,連歌をして酒盛りを楽しむ茶会(茶寄合)が流行した。

 やがて、喫茶の作法は村田珠光、武野紹鴎、千利休などによって極められて日本独自の「茶の湯」、茶道に発展した。初期の茶会は茶を飲んだ後で贅沢な本膳料理と酒宴を楽しむものであったが、千利休らが行った侘び茶の茶会では、茶を心静かに味わうことに重きを置くため、茶の湯に先立ち亭主が自ら簡素な料理で客人をもてなすようになった。それが懐石料理の起こりである。

 そもそも、懐石とは禅の修行僧が温めた石を懐に入れて空腹を紛らわしたことから出た語であり、温石代わりになるぐらいの軽い食事を意味する。基本的な献立は飯、汁、向付、煮物、焼き物の一汁三菜であ理、数多くの料理を並べる本膳料理を簡素化したものと考えてよい。

 ただ、本膳料理ではすべての料理をいくつもの膳に同時に並べるのに対して、懐石料理で使う膳は一つあるいは二つであり、そこに料理が一皿ずつ運ばれ、一皿を食べ終わればつぎの料理が運ばれてくる。前菜、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、デザート、コーヒと順に運ばれてくるフランス料理と同じ給仕様式である。本膳料理が料理の品数が多いことを競い、美しく飾り立てた「見せる供応料理」であったのに比べて、懐石料理は吟味した料理を数少なく出す「食べて楽しむ実質料理」だと言ってよい。懐石料理が考案されたことにより日本料理はほぼ完成の域に達したのである。どのような料理であったかは次話で紹介する。

 

 

 

 

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