平安朝の藤原氏に代わって鎌倉幕府を開いた東国の武士たちは京風の華美な生活を避け、衣食住、特に食事については質素倹約を励行していた。玄米飯を食べ、狩りで獲った鳥獣の肉がご馳走であったらしい。将軍」源頼朝が鮭の切り身を干したものを贈られて大喜びした話、執権北条時頼が夜中の来客と味噌を肴にして酒を飲んだ話などは鎌倉武士の食事がいかに質素なものであったかを物語っている。しかし、京都に室町幕府を開くころになると生活が華美になり、本膳料理という豪華な宴会料理を考案するのである。

 本膳料理は膳をいくつも並べて品数多くの料理を並べる豪華な宴会料理であり、今日の会席料理など日本料理の基本になった料理形式である。客の正面に据える本膳には飯と汁と菜を数品載せ、その右に二の膳、左に三の膳を並べてそれぞれに別の汁と菜を載せて接待するのである。七の膳まで並べれば、料理の品数が八汁、二十三菜にもなるという贅沢なものになる。

 それぞれの料理は精進料理の料理法を取り入れて味よく調理されている。例えば、本膳には塩鮭の焼き物、雉の焼き物、青菜で和えた鱠,鮓と汁の一汁四菜を並べ、二の膳には鯛の塩焼き、さざえ、蛸の煮物、それに鯉の汁と醤油味の雉の汁を加えて二汁三菜を並べる。三の膳には魚の冷汁と小鳥と貝の煎り煮、烏賊の一汁三菜である。

 そのほかに、客が取り回して自分の皿に取り分ける引き物料理として、雁の熱汁、かまぼこ、鮭の筋子,鱚の焼き浸し、がざみ、山芋のとろろをかけた鯛の刺身,さざえ、干し魚などが出されることもある。焼き物や鱠は皿や椀に季節の木の葉や紙を敷いて美しく盛り付け、かまぼこや貝には紙細工の飾りを付けるなど、料理を美しく見せる工夫を凝らすのである。

 永禄四年(1562)、将軍、足利義輝が家臣の三好義長の屋敷に招かれた折には、まず将軍と義長が主従の杯を交わす式三献を済ませた後で、七の膳まで並べる本膳料理で八汁二十三菜と菓子八品を供された。饗膳が済むと演能を鑑賞しながら酒を飲む酒宴になるが、膳の料理と能の曲目を取り替えて酒を飲むことを四献から十七献まで夜を徹して繰り返している。

 文禄三年(1595)、豊臣秀吉が前田利家の屋敷を訪ねた時の饗宴の献立は、型どおりの式三献の後、五つの膳を並べる本膳料理で三汁、二十七菜と引き物、菓子十八品が饗され、酒宴は四献から十三献まで繰り返された。

 この後、登場してくる茶の湯の席の懐石料理、江戸の料亭で楽しまれた会席料理はどちらもこの本膳料理を簡素化したものである。そして、本膳料理で採用された飯、汁、菜、香の物(漬物)の4点を組み合わせる形式が、この時代以降、今日まで続いている和食、日本料理の基本形となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

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