延暦13年(794)、都が平城宮から京都、平安京に移されると、朝廷が行っていた律令政治は次第に衰え、代わって藤原氏一族による摂関政治が始まった。政治の権力を握った藤原氏の貴族たちは同族の結束を固めるために大宴会をしばしば開いていた。

 そのなかで、藤原忠道が内大臣に任じられたのを祝う宴会の記録が残されているので紹介しよう。まず、数多くの料理を並べた台盤という朱塗りの中国風テーブルを囲んで主人と客が椅子席に着くと、式三献という一族固めの杯ごとが行われる。最初に藤原氏一族の長者、頼長が杯をとって酒を飲み、その杯を順に回して参集した公卿たちが酒を飲む。これが第一献である。次に二献として客だけで杯を巡らせる。三献は再び頼長から飲み始めて、客にその杯が巡るのである。同じ杯の酒を飲み合うことで仲間意識を確かめるために、同じ杯で回し飲みする習慣が古くからあった。上座から順に、杯が一巡するのを「献」といい、三つ重ねの杯を順に使って「献」を三回繰り返すのが「式三献」という儀式である。今日、結婚式で夫婦が三々九度の杯を交わすのはこのことから始まっている。

 この式三献が済むと会食になる。料理を紹介すると、まず台盤の手前に椀に高く盛った飯と箸,匙を置き、塩、酢、酒、醤を入れた小皿を並べる。その向こうにくらげ、ほや、鳥の内臓、鯛の塩漬けを並べる。それらを取り囲んで、雉肉、鯉、鯛、鱒の切り身と鱠、鮑、さざえ、白貝、かに、うに、の生もの、鮑,蛸、小鳥、魚肉の干物を置く。台盤の向こう側には木菓子(干した果物)と唐菓子(中国風のクッキー)を数種類ずつ並べる。

 合計すると20種類の料理と8種類の菓子になるが、多くは生もの、干物、塩漬け、酢漬けであり、火を使った茹でもの、蒸し物、焼き物は少ない。塩漬け、酢漬けの外はどれにも味付けはしてないから、各自が小皿に入れた塩、酢などをつけて食べるのである。料理に味付けをするようになるのは鎌倉、室町時代からである。

 供応の会食が済むと、主客は別の場所に移り、床に円座を敷いて座り、穏座という酒宴になる。各自の前に膳を据えて酒肴、たとえば、干した鳥肉、干し鮑、蒸し牡蠣、くらげ、ほやを配り、最後に山芋粥を出す。公卿たちはこれらの肴で酒を飲み、楽器を奏でて楽しむのである。この酒宴は杯ごと抜きの無礼講であり、飲めや歌えやの二次会である。

 

 

 

 

 

 

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