奈良の都の貴族たちは山海の食材を使った贅沢な食事をしていたが、民衆はどのような食事をしていたのであろうか。当時の人口は全国で700万人程度であり、平城京や平安京の人口は約10万人、その1割が貴族や官吏であった。人口のほとんどが庶民であるが、その食事に関する記録はどこにもないから、想像の域を出ない。

 天平時代の役人、兵士や写経性の日当は米8合、塩Ⅰ勺、醤1合程度であった。一人でも十分に食べるには1日に米4合は必要なのに、1日、米8合の日当で家族を食べさせ、日用品も買うのであるから、その食生活は厳しいものであったに違いない。

 農民はどうであったあろうか。口分田として支給される田、2反から収穫できる稲は平均して80束、米にして1.6石、240キログラム程度であった。租、庸、調などの租税、貸し付けられた種籾の返却などは合計すると収穫の3割にもなったから、1日に使える米は夫婦合わせて5合である。これで家族を養うとすれば官人以上の苦しい生活になる。当時の農民の悲惨な生活を憤って読んだ山上憶良の「貧窮問答歌」にあるように、農民の家では「飯を炊くことができないので竈には火の気がなく、米を蒸す甑には蜘蛛の巣が張っている。それでも朝になれば里長が鞭を振りながら徴税にやってくる」という状態であったらしい。

 奈良国立文化財研究所で。藤原京の遺跡から発掘した出土品を参考ににして、当時の食事を再現してみたことがある。それによると、貴族の食事は白米飯、わかめ汁、鮎の煮つけ、茹でた芹、鯛の和え物、鮑のウニ和え、ところてんの醤酢添え、枝豆、瓜の粕漬け、生姜の酢漬けと酒、デザートは酪(ヨーグルト) 枇杷、梅、クルミである。下級役人は玄米飯と塩、青菜のy醤汁、イワシの煮付け、蕪の酢の物と粕湯酒(酒粕を湯に溶かしたもの)、 庶民の食事はさらに貧しく、玄米飯、アラメ汁、茹でたノビルと塩だけである。もちろんどれも味付けはされていない。

 、原始の時代には集落の誰もが同じものを食べていたが、古代王国の時代になると、大王、貴族、管理、農民と社会階層が分化し、それに応じて食事の内容も階層化した。ごく一部の貴族の食事と大多数の民衆の食事は全くの別物になったのである。この状態は江戸時代まで続くのであるが、現代は再び食の平等化が起きて良い時代になった。 

 

 

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