4世紀に誕生した大和王国が隋、唐の政治体制に倣って律令国家に移行したのは8世紀である。文武天皇の701年、大宝律令が制定されて、天皇を中心にした中央集権国家が完成し、和銅3年、710年には壮大な奈良の都、平城宮の造営が完成した。

 この奈良の都に貢物として全国から集まってくる食材は驚くほどに豊富、多様であった。主食は米飯であるtが、粟、黍、大豆、小豆、ささげ豆なども食べた、米は粥や強飯にして食べ、杵で搗いた餅を携帯食にしていた。野菜はナス、大根、蕪、瓜、芹,蕗、生姜、根菜はヤマイモ」、サトイモ、ゴボウなどを汁もの、茹でもの、漬物などにして食べていた。梅、桃、栗、クルミ、柿、橘などの果実は乾して菓子にした。

 魚介類や海藻は豊富にあり、鯛、鰹、鱸、鮪、鯵、ふぐ、鮎、鮒、鰻、鱒など、鮑、蛤,牡蠣、蟹など、昆布、若布などである。これらの魚介類は生で鱠にするか、あるいは焼いて、または丸干し、塩干しにした。魚や貝を飯と塩で漬けて発酵させる熟鮓も作られていた。

 調味料は塩と酢、そして醤(ひしお)であった。醤の製法は大陸から伝来したものであり、穀醤、肉醤、草醤の区別がある。穀醤は大豆、米、麦などに塩を混ぜて発酵させたもので、のちに味噌、醤油になるもの、肉醤は塩辛や、魚醤の類であり、草醤は野菜や果物を塩漬けにしたもので漬物の原型である。後に日本料理の味付けに欠かせないものになるのは鰹節と昆布であるが、現代のような鰹節はまだなく、鰹の茹で汁を煮詰めたものを使っていた。昆布は結び昆布にして食べたが,出汁をとるのには使わなかった。酒つくりの技術は大陸から伝来したのであるが、この頃には蒸し米を麹で糖化して発酵させる日本独自の酒つくりに変わっていた。酒つくりに失敗して酢酸菌が混入すると、酒が酸敗して酢に変わってしまうので、その苦い経験から酢を苦酒と言っていた。

 牛乳と乳製品が獣肉に代わる蛋白源として天皇や貴族に愛用されていたが、その後姿を消してしまった。わが国では地形の関係もあって肉用、乳用に家畜を飼う牧畜業は育たなかったのである。

 これらの食材は調,庸として献上され、る絹布、絹糸、麻布などと同様に全国から平城宮に運ばれてきたものである。都には官営の東市と西市が設置されていて、役所に収められたもの、官人に支給されたものなどが必要なものと物々交換された。

 

 

 

 

 

 

1