食べられるものと食物とは同じでない。芋虫や甲虫などは食べて食べられなくはないが、文明国の食物ではない。食べられるものが多くある中から、栄養素が豊富で、かつおいしいものを食物として選び出すのは食文化の始まりである。

 その食べ物を得る手段は狩猟採取と漁労で始まり、やがて農耕に移行する。農耕によって穀物を安定して手に入れることができるようになると、人類は食物を捜し歩く苦労から始めて解放され、生活に余裕ができ、文化行為ができるようになるのである。

 狩猟採取に頼って暮らしていた時期は、主食、副食の区別はなく、その時、その地域で手に入るものを何でも食べる雑食である。農耕が普及して、米 、麦、トウモロコシなどの優れた穀物が安定して多量に収穫できるようになり、それを保存しておけば年中食べ物に困らなくなると、食べ物の選択ができるようになり、やがて主食と副食の区別が始まる。主食とはその地域で大量に手に入れることができ、栄養素の大部分を摂取することができる食べ物のことである。米、麦、トウモロコシが世界の三大穀物であり、わが国では米が主食になった。

 原始時代の生活は何事も共同作業である。人間は生物としては弱い存在であり、お互いに協力しなければ他の動物から身を守ることが困難であった。また、鳥や獣を捕えるにも、森を伐採して畑を開墾し、水路を開いて農耕をするにも村人の共同作業が必要である。だから、手に入れた食べ物は仲間と平等に分け合い、そのことで仲間意識を確かめ、愛情を表現したのでる。人間は仲間と共食する唯一の動物なのである。だから、「食べさせる」という言葉には食べ物を分かち与えることだけではなく、生活全般の面倒を見るという意味があるのはこのことによる。

 しかし、部落が大きくなって古代のクニが形成されるようになると、そこを統率する王や貴族、神官と部民などの社会階層が分化してくる。すると、食事にも階層化が生じ、王や貴族は山海の珍味を集めて贅沢な食事をすることができるが、一般民衆はかろうじて命をつなぐだけの貧しい食事しかできなくなるのである。火を使い、石器や土器で煮炊きをするのが調理の始まりであり、それに塩や酢をつけて食べる古代の食事が発達して、油や調味料を使って味付けをする料理が始まるのは中世になってからである。

 わが国では、古墳時代から奈良朝のころになって、水田稲作を基本産業とする古代王国が成立し、食生活においても主食と副食の分離、食の階層化、調味料らしきものの出現が認められるようになるのである。今日、ごく日常のこととしている食生活は人間だけに許された高度の生活文化なのである。食の文化は絵画、音楽、文学、演劇などと同じように立派な文化なのであることを認識して学んでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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