しかし、縄文人の恵まれた食生活はいつまでも続くことはなかった。紀元前数百年、縄文晩期になると気候が次第に寒くなり、植物の生態が変わって山野で採取できる食料が少なくなり始めた。そのため、人口が減り、集落の規模もにわかに小さくなり始めた。

 ちょうどそのころ、タイミングよく中国大陸から稲作の技術を携えて,多数の渡来人が移住してきたのである。稲は高温で雨の多い我が国の気候に適した作物であったので、水田稲作は数百年のうちに全国に広がり、多量に収穫できる米が日本人の主食になったのである。

 稲は収量の良い作物であり、栄養価に富み、貯蔵性もよく、美味である。稲という優れた穀物を手に入れたことにより、わが国はわずか数百年の間に狩猟採取に頼っていた縄文時代から農耕社会である弥生時代に移行することができた。水田稲作によって多量の米をを安定して確保できるようになったので、人々は食べ物を探す苦労から解放され、生活に余裕ができて人口が増え、集落が大きくなって古代王国を築くことができたのである。

 しかし、弥生人は米だけを主食にして暮らしていたのではない。日本列島の温帯位モンスーン気象は稲作に適してはいるが、山地が多く水田にできる平地が少ないので収穫できる米は限られていたからである。静岡県の登呂遺跡でも水田面積は狭く、収穫できたコメは住民が必要とする半分もなかったと推定できる。

 それでは弥生人は米のほかに何を食べていたのであろう。全国の弥生遺跡から出土する食べ物異物をみると、一番多いのはドングリであり、米ではない。米だけでは足りないので、縄文時代と同じようにドングリクリ、クルミ、トチなどの木の実を多く利用し、そのほかにウリ、ダイズ、ササゲマメ、オオムギ、ソバ、モモなどを栽培していたと考えられる。粟、ソバ、ウリなどは縄文時代に中国大陸から、サトイモ、ヤマイモなどは東南アジア諸島から、季節風、海流、渡り鳥、あるいは人の手によって伝来し、オオムギ、アズキ、ダイズ、ササゲマメなどは弥生時代に朝鮮半島から伝わってきたらしい。

 漁労も盛んに行われ,外洋では舟、網を使ってコロダイ、マダイ、ボラ、スズキ、フグ、イイダコなどを捕え、水田や小川ではアユ、コイ、フナ、ナマズなどを網や籠で捕えた。しかし、人口が増えても木の実の採取量や魚の漁獲量が増えるわけではないので、食料は次第に水田稲作に頼らざるを得なくなった。

 そこで、彼らの食生活は次第に米を中心にして行われるようになり、その米を多量に得るために水田の開墾や水路の掘削が部落民総出で行われるようになる。やがてそれを指揮するリーダーが現れて古代のクニが生まれのである。このように、米は日本食の根本であると共に、日本の国造りの礎でもあったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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