飲食という言葉があるように、食事には飲酒がつきものである。日本人が酒を飲むことを覚えたのはまだ狩猟採取の生活をしていた1万年ぐらい昔のことであろう。果実の汁や蜂蜜が自然に発酵しているのを発見した縄文人はぷくぷくと泡立ち、いい匂いのするその汁をおっかなびっくり味わってみて不思議な気持ちになった。アルコールの働きで心が高揚する「酔い」を経験した彼らは、すぐに真似をして酒を作ってみたであろう。野ぶどうの実などを集め、踏み潰して壷に蓄えておけば果皮についていた酵母の働きで果汁が発酵して酒になることを覚えたのである。

 やがて紀元前数世紀になって水稲の栽培が始まり食料の心配がなくなrと、人口が増えて大集落が出現し、クニが誕生する。人口が増えると飲む酒も多量に必要になり、拾い集めてきた果実やは緻密から酒を造るだけでは足りなくなり、豊富に収穫できる米を使って多量の酒を造ることが始まるのである。古事記によると4世紀、応神天皇の御代に百済から来た人たちが美酒を醸造して献上したと記されているから、本格的な酒造りの技術は大陸伝来であったのであろう。蒸米にコウジカビを生やした麹を使って米を糖化して酒を作るのである。

 古代の農耕生活は台風、洪水、旱魃など自然の脅威に絶えず脅かされていたから、自然の現象を支配して豊かな実りを授けてくれる神様への畏敬の念が生まれる。人々は神に酒を供え、そのお下がりを飲んで心を高ぶらせ、神のお指図を訊こうとした。村人たちは酒を飲み交わして収穫を祝い、また戦勝を喜び合って、仲間の結束を強めた。古代の酒は神の霊力を分けてもらうために、そして部族の団結を固めるために、部落全員が集まって飲むものであり、一人で楽しむために飲むものではなかった。

 紀元7世紀になり、大和王国が律令国家に移行するころになると、酒の醸造は官営になり、多量の酒が朝廷の祭祀儀式や節会の祝宴に使われるようになった。平城宮には宮内省が管轄する造酒司があり、多数の官人が宮中の祭祀に使う酒つくりに従事するようになった。地方の国府でも酒人部があって節会に使う酒を造っていた。国を治める祭祀行事には酒盛りが欠かせなかったからである。民間の飲酒は制限されていて、機会あるごとに禁酒令が発布されていた。一般の民衆が酒を飲むようになるのは江戸時代以降のことなのである。

 

 

 

 

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