戦後の食生活に大きな影響を及ぼしたのは学校給食である。学校給食は全国、1300万人の児童、生徒を対象に戦後60年間継続されているから、育ち盛りの6年間、給食を食べて育った戦後生まれの世代の食習慣に大きな影響を及ぼし、パン食の普及、料理の洋風化を推進したといえる。

 今日では学校給食は全国で行われているが、戦前にはごく一部の地域で行われていた。戦前の学校給食は明治22年、山形県鶴岡市の市立忠愛小学校で、貧しい家庭の児童におにぎりと塩鮭、漬物の弁当を週に6日支給したのが最初である。国費を補助して実施するようになったのは昭和7年米の凶作続きで苦しむ北海道、東北地方の農村に激増していた欠食児童に給食をした時からである。昭和19年からは学校給食奨励規定を定めて6大都市の小学生200万人に給食を実施することになったが、戦争が激化したので中止になった。

 戦後、学校給食が再開されたのは、第二次大戦後の深刻な食糧難で児童の栄養状態が極端に悪化したからである。昭和20年の6年生児童の体格は明治40年代の水準にまで逆戻りしてしまっていたのである。そこで政府は児童の栄養状態を改善するため、小学校給食を再開することを決定し、駐留軍、ララ委員会、ユニセフ、ガリオア資金などから小麦粉と脱脂粉乳の援助を受けて、昭和22年、全国主要都市の児童、300万人に週2回、300キロカロリーの昼食を支給することが実現した。さらに昭和27年からは全国の小学校児童に対象を広げてコッペパン、脱脂粉乳ミルクとおかずの給食を実施したのである。

 当時の学校給食では家庭食に不足していた動物性たんぱく、油脂を補うため洋風の献立が多く、おかずの定番は鯨肉の竜田揚げ、カレーシチュー、ポタジュスープなどであった。パンとミルク、魚のフライ、マカロニサラダ、グラタン、八宝菜などの学校給食を成長期の6年間、毎日食べるのであるから、児童の栄養状態の改善に役立っただけではなく、家庭でのパン食の普及、おかずの洋風化を推進することもになった。

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