私たちの食事は日本人が明治維新まで食べていた伝統的な和食とずいぶん違うものになっている。この変化は明治政府が伝統的和食の栄養的欠陥に気づいて改善しようとしたことに始まる。

 米飯を主食として魚や野菜をおかずにするで伝統的和食はともすれば栄養不足に陥りやすい。明治末年になっても国民の摂取カロリーの93%は米、麦、芋、豆に依存していて、食肉、魚介類、鶏卵、食用油などを摂取することはごく少なかった。だから、タンパク質の摂取比率は総エネルギーの12%、脂質は6%と低く、栄養素のバランスがきわめて悪い状態が続いていた。日本人の体格は 江戸時代にもっとも貧弱になっていたのである。

 富国強兵をスローガンに近代国家の建設を目指した明治新政府にとって、国民の体位向上、疾病予防、健康増進は焦眉の急であった。そこで、当時勃興してきた西欧の近代栄養学の知識を取り入れて国民の食事栄養の改善指導を始めたのである。その最初が肉食の奨励であり、軍隊食の改良であった。

 明治6年、徴兵制によって編成された陸海軍の兵隊に支給された軍隊食は、1日に白米6合、900グラムを基本とする食事であった。当時は米が不足していて、麦飯ばかりを食べていた農村の青年は軍隊に入れば白い飯が腹いっぱい食べられると喜んだものである。しかし、編成されたばかりの軍隊を悩ませたのは脚気の流行であった。脚気は米食民族に特有の栄養障害であり、初期症状は身体の倦怠感、食欲不振に過ぎないが、進行すると多発性神経障害が起きて、ついには呼吸不全、心不全で死亡する恐ろしい病気である。日露戦争の戦病死者は4万7000人であったが、その内、脚気による死者が2万8000人にもなるという悲惨なことになった。

 脚気の原因は白米食にあると考えられるようになり、明治43年、東京大学の鈴木梅太郎博士は米ぬかより脚気を予防する因子、オリザニン(後のビタビンB1)を世界で初めて単離することに成功した。米の胚芽に含まれているビタミンB1は精白すると取り除かれ、玄米の5分の一に減少することが判明したのである。これ以来、陸海軍では兵食を大麦を混ぜた麦飯に切り替え、肉食を増やすなどして脚気を一掃することに成功した。食物の微量栄養成分が病気予防に必要であることが実証された最初の事例である。

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