明治維新になり、日本の社会は「文明開化」をスローガンににして欧米の先進文明を積極的に吸収して殖産興業、富国強兵の近代化路線を歩み始めた。食生活においても西洋の料理を滋養に優れた進歩的なものとして受け入れことが近代化の始まりであった。

 欧米を視察して帰朝した福沢諭吉は「西洋衣食住」を著して、欧米風の肉の多い食事をすれば日本人の貧弱な体格を改善できると説いたが、肉食は容易には普及しなかった。日本にはそれまで千二百年もの間、殺生を禁じる仏教戒律を守り、肉食は忌むべきもの,汚れたものと考える思想が広く定着していたからである。

 そこで明治4年、宮中で率先して肉食を解禁し、天皇の食事に牛肉を使い、在日外国人高官を招く公式晩餐会にもフランス料理を出すことになった。このことが報道されると、たちまちいくつかの府県で肉食奨励の布告が出されたのである。

 明治10年ごろになると、東京、横浜、函館や神戸では本格的な西洋料理を提供するホテルやレストランが相次いで開業したが、お客は外国人、貿易商、軍人と高級官僚ばかりで、庶民には縁がなかった 米、魚、野菜、味噌、醤油にならされてきた日本人の舌には牛肉、牛乳、バター、コーヒなどはなじみにくいものであった。

 庶民は西洋料理店ではなく、牛鍋屋に出かけた。牛鍋は牛肉を鉄鍋で焼き、ネギと一緒に味噌あるいは醤油と砂糖で煮る和風味であったから抵抗がなかったのである。「牛鍋喰わねば開けぬ奴(時代遅れ)」と西洋かぶれの人々に大流行し、東京だけで5百数十軒の牛鍋屋が繁盛したという。

 政府は疾病予防、国民の体位向上を目的として栄養知識の啓蒙に乗り出し、牛肉、牛乳、乳製品などの摂取を奨励したが、西洋風の牛肉料理は容易には普及しなかった。ところが、軍隊での給食にパン、牛肉料理が採用したたことが牛肉食の普及に役立った。当時、軍隊における食肉の消費量は民間の20倍も多く、日清、日露戦争の戦地で牛肉大和煮の缶詰を食べた兵士たちはそのおいしさに驚いたのである。

 

 

 

 

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