米不足は明治になっても続いた。明治14年、稲の作付面積は259万ヘクタールになり、477万トンの米が収穫できたが、一人あたりにすれば江戸中期と同じ124キログラムに過ぎない。したがって都市部では白いご飯を食べていたが、農村では麦、雑穀が6割、米が4割の混ぜ飯を食べていた。

 昭和58年、国民的人気者になったNHK朝の連続ドラマ「おしん」の主人公、おしんが育ったのは明治40年代、山形県の寒村である。そこで、おしんの家族が大根飯を食べているのを見て涙した人が多かった。明治政府が徴兵した兵士に給食した軍隊食は1日に白米6合、900グラムである。当時、民間では2合3勺、345グラムしか食べておらず、麦飯ばかりを食べていた農村の青年は「軍隊に行けば白い飯が腹いっぱい食べられる」と喜んだという。

 大正時代になると、米の収穫量は一人当たり148キログラムに増えたが、第一次大戦後の好景気で国民の収入が増えて需要量が160キログラムに増えたので、不足分は朝鮮、台湾、ビルマなどから外米を200万トンも輸入して補った。大正7年、、輸入米の供給がひっ迫して買占めが起き、米価が4倍にも高騰して民衆の抗議暴動、「米騒動」が起きたのである。

 第二次大戦が始まると米不足は再び激しくなった。農村で成年男子が徴兵されて労働力が不足したため、生産量が大きく低下したからである。政府は米を配給制にして一人1日、2合3勺、年間126キログラムを確保しようとしたが、戦争末期にはそれもできなくなった。国民はサツマイモ、カボチャ、豆粕、米ぬか、芋の蔓まで食べて飢えをしのいだ。

 ところが戦後、農地解放が実施されると農家の生産意欲が高まり、化学肥料や農薬を使って米の増産が始まり、昭和30年には戦前の生産量を回復し、昭和42年には米の生産量が過去最高の1445万トンに達し、、一人当たり145キログラムになった。しかし皮肉なことに、米の消費量は昭和38年の1341万トン、一人当たり年間、139キログラム、1日380グラムをピークとして減少し始め、平成22年には762万トンにまで半減し、一人当たり1日163グラムで充足するようになった。

 これは戦後、食事が洋風化して肉料理、油料理を多く摂るようになったので、主食であるご飯の摂取量が減り、さらに三度に一度はパン食をするようになったからである。かくして、稲作が伝来してから2千年、明治になってからでも百年は続いた米不足が解消し、国産米は史上初めて生産過剰になったのである。それと共に、奈良時代の班田制度に引き続いて中世の荘園制度、江戸時代の石高制と延々1400年も続いた国家による米の生産管理が、平成7年、国家食糧管理法の廃止により終わったのである。

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