日本人は米食民族だといわれているが、実は米はいつの時代にも絶えず不足していて、民衆は十分に食べることができなかった。ご飯と味噌汁、漬物で必要な栄養を摂るには米が1日に5合、750グラム必要である。一人当たり、年間に1.8石、270キログラムの米が必要なのである。

 稲作が始まった弥生時代には米は必要量に全く足りず、縄文時代に引き続いて栗、どんぐりなどの木の実を採取して食べていた。奈良時代になっても収穫できる米は一人当たり100キログラム程度であった。班田収授の制度で農民男子に貸与される口分田、2反から収穫できる米は240キログラム程度であり、租税、義倉、日用品の購入にあてる米を差し引くと、飯米にできるのはその3分の2、160キログラム、1日にすれば440グラムである。妻の口分田からの収穫を合わせても、1日に730グラム、5合弱であるから、これで家族が食べるのは容易でない。山上憶良の「貧窮問答歌」にあるように、何日も飯を炊くことがないので竈には火の気がなく、米を蒸す甑には蜘蛛の巣が張っているという惨めな生活であった。

 中世の武家社会では精進料理、本膳料理、懐石料理など日本料理が発達したのであるが、農民たちの食生活は相変わらず貧しいものであった。黒沢 明監督の名作映画「七人の侍」には室町時代末期の農民の食生活が描かれている。米の飯を食べさせるという約束で侍を雇い、村を野武士の略奪 から守ろうとする百姓の物語である。自分たちは雑穀の雑炊で我慢して食わせてくれた一椀の白い飯のために、命を投げ出す侍たちの行動はとても作り話とは思えない。

 江戸時代は戦乱のない平和な時代であった。諸大名が新田の開発を熱心に行ったので、水田面積は160万ヘクタールになり、米の収穫量は320万トンに増えたが、人口も増えたので一人あたりにすれば120キログラムにすぎず、米は相変わらず不足していた。それでも江戸の町人は米の飯を食べることができるようになったのだが、米の値段は現在の4倍も高かった。例えば、長屋に住む大工は1日を450文ぐらいで暮らしていたが、このうち米1升を90文で買っている。米代が家計の2割を占めているのである。人口の8割を占める地方の百姓は収穫した米の半分を年貢に取られ、麦や粟、野菜を混ぜた雑炊を食べていた。

 

 

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