弥生時代から古墳時代の頃、稲作を大規模に行うには村落全員の共同作業が必要であった。村人総がかりで野原を開墾し水路を開いて整然とした水田を作るのである。そして、収穫した米を共同管理し、豊作を祈ってお祭りをするようになると、それらを指揮するリーダーが必要になる。その一人が邪馬台国の卑弥呼である。かくして、稲作を中心にするいくつもの古代祭祀国家が生まれたのである。

 5世紀ごろになると、これらの国々を統一して畿内に大和王朝が登場する。7世紀、中国の都に倣って建設された壮大な奈良の都の経済を支えたのは米作りである。孝徳天皇の646年、大化の改新により全ての田畑、領民を公有にする公地公民制度が発足し、公民には口分田を貸与する班田収授法が実施された。公民男子には2反、女子には1反120歩の水田を貸与して,戸ごとに収穫した米を租税として物納させるのである。

 奈良時代が終わる8世紀末には、全国の耕地面積はすでに百万町歩(約百万ヘクタール)、その内、水田は70万町歩(約70万ヘクタール)に達していたと考えられるから、約70万トンの収穫があったであろう。それから千年後の江戸中期になると水田面積は約160万ヘクタール、収穫米は300万トンを超えたが、人口も増加しているから、国民一人あたりの米の収穫は120キログラム程度で奈良時代に比べてさほど増えていない。

 とにかく、日本の稲作は国家の財政収入を賄うことを最優先にして国家管理されてきたといってよく、奈良時代に始まって、中世の荘園制度、江戸時代の石高制と続き、明治時代になるまで米の収穫を経済の基盤とする政治体制が1300年間続いたのである。米は我が国の食文化の主役であるとともに、国家の財政を支え続けた主役なのである。

 徳川幕府の経済基盤は米を通貨とする石高制 (こくだかせい)である。全国の水田、畑、屋敷地などすべての土地をそこから取れる米の石数で見積り、それを基にして年貢米を徴収して、幕府と諸藩の財源にするのである。実際に収穫できた米は2000万石、約320万トンであるから、1石が1両だから、1両を13万円として計算すると、米の総生産額は2.6兆円、年貢を5割とすると、1.3兆円が国家税収になる。

 ちなみに、米余りの現在、全国の作付面積は160万ヘクタール、総収穫量は850万トン、総生産金額は1.8兆円であり、国家税収、45兆円の4%に過ぎなくなっている。稲作の経済価値は昔に比べて著しく低下している。

 

 

 

 

 

 

1