我が国に水稲の栽培技術が渡来したのは紀元前数百年ごろである。日本で最も古い水田跡は紀元前5世紀、約2500年前の福岡市板付遺跡、野多目遺跡であり、そこでは鋤,鍬などの木製農具、穂摘みをする石包丁などが出土する。すでに、田植えをしていたらしい形跡も残っている。

 アジアの稲は主にジャポニカ種とインディカ種であるが、日本に渡来したのは米粒に丸みがあ理、炊くと粘り、甘みがでる温帯ジャポニカ種の糯米である。刈り取った稲穂はそのまま袋や壷に入れて穴倉か高床式倉庫に貯蔵しておき、木臼と堅杵を使って脱穀した。その玄米を土器を使って粥に煮て食べていたらしい。古墳時代になると土器の鉢底に穴を開け布を敷いて洗った米を入れ、水を入れた甕に重ねて火にかけて蒸す甑(こしき、現在の蒸籠)が中国から伝わってきたので、強飯 (こわいい、現在の おこわ)を食べるようになった。

 強飯に代わって柔らかい姫飯 (ひめいい、現在のご飯)を民衆が食べるようになったのは室町時代、今から600年前のことになる。そのころから糯米に代わって粘りの少ない粳米の栽培が始まり、蒸しても柔らかにならない粳米を水分がなくなるまで炊き蒸らすことができる丈夫な鉄釜が使えるようになったからである。

 竈に薪を燃やしてご飯を炊くことは当時の主婦にとっては大仕事であった。江戸時代には朝に一度ご飯を炊いて食べ、昼、夜は冷飯を湯漬けにして食べていた。第二次大戦後に登場した電気炊飯器はこうした主婦の苦労を解消したのであり、さらに電子レンジを使えば冷凍飯や冷飯をチンするだけで温かいご飯にすることができる。電気炊飯器はアジアの米食民族に恩恵を及ぼした日本人の偉大な発明である。

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